承認欲求という病気

病院生活の始まり

 

ある日、いつものようにコンビニでお昼を買いすませました。

この日の夜、僕は一睡もできませんでした。腹部が僕の体の支配下から離脱していくような感覚。

 

「どこにも行かないでくれ。」

 

と思いながら、幾度も眠りにつくことに集中したができませんでした。そして、急患として病院に向かい、朝を病院で迎えました。

 

 

 

入院すると恐ろしく時間を持て余します。とにかく、やることがありません。

 

やることといえば、頑張って細胞分裂の応援して回復を促進することくらいです。

 

そんな応援もほどほどにすると、天井を見つめるか、本を読むくらいしかできることはありません。

 

仕方ないので、天井を見つめていると、なんだかどっからのタイミングで内省が始まります。

 

その原因を考えてみると、僕には日頃、自分を見つめる時間というものが無いことによる反動なのでしょう。

家にいても、会社にいても自分の時間というのが基本的にありませんでした。

 

僕は生まれてかれこれ26年間、自分の部屋というものを持ったことがありません。

 

代わりにスタンディングデスク代わりの棚と半畳の座れるだけのスペースがあるだけです。

特別特典で家族とTVの雑音というBGMもついてましたね。

しかし、洗濯もご飯も付いているのでなるだけ文句は言わないようにしています。

 

天井を見つめるのに飽きると、読書をし始めます。

そして、天井と本に視線を交互に移しながら一日が終わります。入院生活はそんな毎日。

 

 

僕が入院のときに読んでいた本は幸せになる勇気

そこで書かれていた文章が僕には衝撃でした。

 

「自分で自分を認めてあげるしかない」

「原理的に相手がどう思っているかは知りえない」

 

今では、FaceBookやInstagramといったSNSでいいねをもらいたいがために周りの目を集めるのに必死。

 

しかし、それは承認欲求でしかないように思います。

さらに根源を極めるなら、親から褒められたりすることもこれと同じです。

 

「勉強を頑張った。」「リレーで1位になった。」「志望校に合格した。」

 

そういったことで親から褒められたことがあるでしょう。

 

多分、嬉しかったはず。僕もそうだったと思います。

 

でも、これは違うのです。求めるべきことは。

本当は自分で自分を褒めるべきだと僕は思います

褒められることでそれに快感を求めて、また頑張る、誰かがそれを褒める、もっと頑張る、そして誰かが褒める。そのサイクルです。

でも、その誰かの大概はうまい方向に行かせてやろうなんて思っていないでしょう。悲しいことに。

誰かのために頑張るのではなく、自分のために頑張る。それが結果的に誰かの喜びになっているべきだと僕は思います。

でないと、褒めてもらえない状況に悩むか、他人に褒めてもらえそうなことをやり始めてしまいます。

まるで茨の道を裸足で歩むような人生になると僕は想像します。

 

多くの人がこの褒めるられるループにハマってしまっているように僕は思います。というか、僕はそうでした。ハマっていました。そうやって26年間やってきた。

 

 

宙船/TOKIOで「お前のオールを任せるな」ってあるように、 誰かに自分の人生のイニシアチブを握らせてはいけません。

 

誰かに褒められることに快感を求めて、また頑張る、誰かがそれを褒める、もっと頑張る、そして誰かが褒める。こんなのは目隠しをして、暗闇を誰かの声と言葉を頼りにさまようみたいなものですよ。

 

そして、今、僕はようやくその目隠しを外しました、人生のイニシアチブを握っています。

 

入院での内省が少し僕を前に進めたように思います。

 

  • 幸せになる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

この記事は、以前書いたものを修正して再投稿しました。

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